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「千と千尋の神隠し」と「となりのトトロ」は、同じ発想から派生した別々の物語のように感じる点があります。2つの作品で誰もが解りやすい共通点といえば「千と千尋の神隠し」に登場している「ススワタリ」です。イガ栗のような形をした黒いお化けですが、ご存知のように「となりのトトロ」にも「まっくろくろすけ」という名前で登場しています。ジブリ作品ではよくあるキャラクターの使い回し?にようにも思えますが、宮崎駿氏が2つの世界をつなげる役割のあるキャラクターとしてススワタリ(まっくろくろすけ)を描いているのではないでしょうか?
そのほかにも、2つの作品とも木や森が重要な役割を果たしていて、そこから別の世界への扉が続いていいたり、トトロとカオナシが現実の世界でもなく非現実の世界でもない、全く別の世界からやってきた謎の存在として描かれていたり、さつきがトトロとネコバスに乗っているシーンとは千尋がカオナシと海を走る電車に乗っているシーンと重なって見えてきます。つまり、宮崎駿氏の持つ世界観を、「千と千尋の神隠し」と「となりのトトロ」という、2つの別々の解釈で描いた作品、あるいは「千と千尋の神隠し」は「となりのトトロ」の続編として描かれた作品になるのかもしれません。
油屋にきた千尋は謎の少年ハクの指示に従い、急階段を下ってボイラー室にいる釜爺に会いに行きます。千尋がようやくたどりつたボイラー室には6本の手足を自由自在に操る釜爺と、石炭をひとつづつ背負って運んでいるススワタリに出会います。ススワタリは「となりのトトロ」でも登場したマックロクロスケを継承した存在です。「となりのトトロ」に出てくるマックロクロスケには手足がなく、昔からこのあたりに住んでいる生き物という設定ですが、「千と千尋の神隠し」のススワタリには手足があり「労働」の代償として湯婆婆が魔法で実体化させているという設定のようです。それは釜爺の「コラー、チビ共、ただのススに戻りたいのか!」というセリフから垣間見ることができます。やがて、ボイラー室にリンが食事を運んできます。リンは最初、千尋を拒否するような態度を見せますが、やがてリンも千尋の味方となるべく、お姉さんのような存在になっていきます。
こうした描写は「となりのトトロ」でメイを助けにいったサツキ、千尋のお姉さん的存在となるリンが不思議と共通しているように思えてきます。しかし、なぜ宮崎駿さんは「千と千尋の神隠し」に、このススワタリを登場させたのでしょうか?これが、ただ単に宮崎駿さんの「遊びゴコロ」だけとは考えづらく、「となりのトトロ」と「千と千尋の神隠し」の世界観を結びつけているように思います。
「千と千尋の神隠し」を初めて映画館で見たときの感想は「宮崎駿氏は子供から大人まで楽しめるエンターテイメントに徹した作品をつくったんだ~」というものでした。ジブリ作品はビデオを買って、あるいは借りてきて見るという人も多いと思いますが、この作品は是非とも映画館の大画面で見ることをオススメします。現在のアニメーション技術は画面の迫力、音響の素晴らしさなど、数年前と比べて飛躍的に進歩しています。「千と千尋の神隠し」は、そうした技術的な進歩を実感できる作品に仕上がっていると思います。何故なら「千と千尋の神隠し」という作品からは、今まで宮崎駿氏がひとつひとつの作品に込めた独自の思想を感じることが出来なかったからです。これは作品が面白くないという意味ではありません。むしろ、娯楽映画としては格段に楽しめる作品になっています。
個人的には宮崎駿氏の思想はマンガ版「風の谷のナウシカ」に集約されていたと、改めて思い返すようにさえなりました。そのかわり、この「千と千尋の神隠し」には宮崎駿さんの、過去の作品に込めた思想をモチーフとした「遊びゴゴロ」がたくさん描かれていると思います。これは、ある意味、行き着くところまで行き着いたから、と考えることも出来ます。その「遊びゴゴロ」から、過去の作品との繋がりを読み取っていくことも、とても興味深い解釈になるのです。
物語の始めに千尋の家族3名がトンネルを抜けて迷い込んだ異空間には、とても興味深い描写が多数見られます。なかでも不思議な飲食街での描写は宮崎駿さんの影響を受けたであろうものがゴチャゴチャになって描かれています。なかでも「め」と書かれた眼のかたちをした看板や、「めめ」と書かれた看板は、つげ義春の「ねじ式」を連想させ、宮崎駿氏の以外な一面を見たような気がしました。
また、千尋の父親が階段を上がった先にある魚の頭の置物、西洋風の建物、ピンクや緑色を使った壁やドア、ステンドグランス、鉄製のテラス、漢字で書かれた看板…など、ここにはさまざまな様式、時代、文化が混在している世界です。こうした描写は中世ヨーロッパのヒエロニムス・ボッシュやブリューゲルの絵を思い起こさせます。彼らの絵はたくさんの奇妙な人物や生き物がひしめきあい、決して一つのカラーに分類されることはありません。そして、ひとつの世界をつくりあげています。まさに宮崎駿氏が「千と千尋の神隠し」というアニメーション映画で表現しようとした世界観が、この異空間から始まっているのです。
「千と千尋の神隠し」と「となりのトトロ」は、同じ発想から派生した別々の物語のように感じる点があります。2つの作品で誰もが解りやすい共通点といえば「千と千尋の神隠し」に登場している「ススワタリ」です。イガ栗のような形をした黒いお化けですが、ご存知のように「となりのトトロ」にも「まっくろくろすけ」という名前で登場しています。ジブリ作品ではよくあるキャラクターの使い回し?にようにも思えますが、宮崎駿氏が2つの世界をつなげる役割のあるキャラクターとしてススワタリ(まっくろくろすけ)を描いているのではないでしょうか?
そのほかにも、2つの作品とも木や森が重要な役割を果たしていて、そこから別の世界への扉が続いていいたり、トトロとカオナシが現実の世界でもなく非現実の世界でもない、全く別の世界からやってきた謎の存在として描かれていたり、さつきがトトロとネコバスに乗っているシーンとは千尋がカオナシと海を走る電車に乗っているシーンと重なって見えてきます。つまり、宮崎駿氏の持つ世界観を、「千と千尋の神隠し」と「となりのトトロ」という、2つの別々の解釈で描いた作品、あるいは「千と千尋の神隠し」は「となりのトトロ」の続編として描かれた作品になるのかもしれません。
油屋にきた千尋は謎の少年ハクの指示に従い、急階段を下ってボイラー室にいる釜爺に会いに行きます。千尋がようやくたどりつたボイラー室には6本の手足を自由自在に操る釜爺と、石炭をひとつづつ背負って運んでいるススワタリに出会います。ススワタリは「となりのトトロ」でも登場したマックロクロスケを継承した存在です。「となりのトトロ」に出てくるマックロクロスケには手足がなく、昔からこのあたりに住んでいる生き物という設定ですが、「千と千尋の神隠し」のススワタリには手足があり「労働」の代償として湯婆婆が魔法で実体化させているという設定のようです。それは釜爺の「コラー、チビ共、ただのススに戻りたいのか!」というセリフから垣間見ることができます。やがて、ボイラー室にリンが食事を運んできます。リンは最初、千尋を拒否するような態度を見せますが、やがてリンも千尋の味方となるべく、お姉さんのような存在になっていきます。
こうした描写は「となりのトトロ」でメイを助けにいったサツキ、千尋のお姉さん的存在となるリンが不思議と共通しているように思えてきます。しかし、なぜ宮崎駿さんは「千と千尋の神隠し」に、このススワタリを登場させたのでしょうか?これが、ただ単に宮崎駿さんの「遊びゴコロ」だけとは考えづらく、「となりのトトロ」と「千と千尋の神隠し」の世界観を結びつけているように思います。
「千と千尋の神隠し」を初めて映画館で見たときの感想は「宮崎駿氏は子供から大人まで楽しめるエンターテイメントに徹した作品をつくったんだ~」というものでした。ジブリ作品はビデオを買って、あるいは借りてきて見るという人も多いと思いますが、この作品は是非とも映画館の大画面で見ることをオススメします。現在のアニメーション技術は画面の迫力、音響の素晴らしさなど、数年前と比べて飛躍的に進歩しています。「千と千尋の神隠し」は、そうした技術的な進歩を実感できる作品に仕上がっていると思います。何故なら「千と千尋の神隠し」という作品からは、今まで宮崎駿氏がひとつひとつの作品に込めた独自の思想を感じることが出来なかったからです。これは作品が面白くないという意味ではありません。むしろ、娯楽映画としては格段に楽しめる作品になっています。
個人的には宮崎駿氏の思想はマンガ版「風の谷のナウシカ」に集約されていたと、改めて思い返すようにさえなりました。そのかわり、この「千と千尋の神隠し」には宮崎駿さんの、過去の作品に込めた思想をモチーフとした「遊びゴゴロ」がたくさん描かれていると思います。これは、ある意味、行き着くところまで行き着いたから、と考えることも出来ます。その「遊びゴゴロ」から、過去の作品との繋がりを読み取っていくことも、とても興味深い解釈になるのです。
物語の始めに千尋の家族3名がトンネルを抜けて迷い込んだ異空間には、とても興味深い描写が多数見られます。なかでも不思議な飲食街での描写は宮崎駿さんの影響を受けたであろうものがゴチャゴチャになって描かれています。なかでも「め」と書かれた眼のかたちをした看板や、「めめ」と書かれた看板は、つげ義春の「ねじ式」を連想させ、宮崎駿氏の以外な一面を見たような気がしました。
また、千尋の父親が階段を上がった先にある魚の頭の置物、西洋風の建物、ピンクや緑色を使った壁やドア、ステンドグランス、鉄製のテラス、漢字で書かれた看板…など、ここにはさまざまな様式、時代、文化が混在している世界です。こうした描写は中世ヨーロッパのヒエロニムス・ボッシュやブリューゲルの絵を思い起こさせます。彼らの絵はたくさんの奇妙な人物や生き物がひしめきあい、決して一つのカラーに分類されることはありません。そして、ひとつの世界をつくりあげています。まさに宮崎駿氏が「千と千尋の神隠し」というアニメーション映画で表現しようとした世界観が、この異空間から始まっているのです。
千尋は父親と母親が豚にされてしまった異空間から、謎の少年と出会いと赤い橋を渡って油屋のある、さらなる異空間へと迷い込んでいきます。そして、この2つの異空間を結ぶ赤い橋というのがポイントです。巷には赤い橋にまつわる都市伝説なども多く、心霊スポットとして有名な赤い橋もあります。赤い橋の「赤」は「美」と「危険」への象徴であり、危険を表す信号です。千尋自身も橋の向こうにある不可思議な建物に魅せられると同時に、この橋の赤にも惹かれています。千尋が10歳という、あちら側にもこちら側にもいってしまうのではないかと思わせる年頃には、子供の頃に誰もが抱いていた好奇心をくすぐるには充分な要素を含んでいます。
また、千尋が橋の下をのぞくと、そこには昔懐かしいレトロな電車が走っていますが、これは、単に橋の「上」と「下」という位置を示す関係ではなく、時の間柄も暗示しているように思います。もし、千尋が橋の下に落ちれば、それは単に落下するだけではなく、「今」から「過去」へと時間も移動してしまいます。つまり千尋が赤い橋のうえで1人遊びをする行為は危険極まりない行為なのです。人は甘く危険な香りのするものに惹かれますが、何より赤い橋には人の心を怪しく誘う魔力のようなものを備えているのではないでしょうか?